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もっきりやでのライブ
昨日はもっきりやでのライブ。集まった人数は少ないが、そうそうたるメンバーだった。こんな濃いい観客の前でステージが出来たことにまず感謝。本当にありがたい。そして、私が本気であることは伝えることが出来たと思う。

当面の目的は「めんたんぴん」を一度でいいから完全復活させること。みなさんにも協力をお願いした。めんたんぴんはもはや個人の範疇を超えている。ファンと関係者一体となったパブリックなものだと感じている。

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【2005/10/31 12:14】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
今日は休憩日
今日は体調不良というか、左の腕から背中の肩甲骨を通って左の首、頭にかけてひどく痛い。途中でキーボードも打てなくなって、しばし休憩。このところ睡眠時間が少ない日が続いたので、そのせいかもしれないと2時間ほど仮眠をとると、すっと痛みは消えていた。しかし直ったわけではないので、リハーサルの予定があったのだが、千田さんに連絡して中止することにした。今日は休憩日とする。
【2005/10/27 21:19】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
和服を着る日
昨日は恒例の先生3連荘の日。最後のパソコン教室では継続が決まり、今後の課題を話し合う。私も苦手のエクセルに学生の写真を挿入して講義の記録を付け始めるなど、みなさんも習得段階をクリアして、応用の段階に入って来た。

ファッションフォーラムでの浜野さんのアイデア「年に一日は金沢の住民全員が和服を着る日を設ける」をご紹介する。考えてみればイベンターに支払う金もらない。煩わしい設営や打ち合わせなど雑多な労力もいらない。単に自分の家族全員和が服を着るだけで、その効果たるやもの凄くインパクトがある。まずは石引商店街から始めると全国ニュースでも取り上げられるのではないか。

まじかに迫った29日高岡「aala」、30日「もっきりや」のライブ。今日、明日は意図したわけではないが空き日となっている。とてもありがたい。毎回来てくれているスタッフから、そろそろ新曲が聞きたいという要望がある。頑張れば完成可能な2曲があるのでトライしてみよう。

HPの仕事も忙しくなってきた。藤間信乃輔さんのものはもうすぐ完成する。和の感覚を取り入れながらもセンスのある楽しいものになりそうだ。
【2005/10/27 08:50】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
オーディオファミリー
土曜日は白山市のオーディオファミリーでのコンサート。オーディオファミリーは旧松任市の郊外の田んぼの中にあるログハウスのオーディオ専門店で、私も20年のお付き合いをさせていただいている。マッキントッシュのアンプやスピーカーがごろごろしている、マニアにはたまらない環境だ。店主の西本氏は、石川県は言うに及ばず、オーディオの伝導師として各地を廻られて今日を築いた人だ。マッキントッシュの社長が尋ねてこられたほどの確かな知識と感性を持っている。代はもう息子さんに移っているが、まだまだ元気で定期的にこのログハウスでのコンサートを企画運営されている。

さあ、千田さん今日はオーディオマニアの人が集まるステージだよ。珠洲のコンサートは福祉関係の国会議員が来るようなイベント、毎回本当にシチュエーションが変わる。今日も私はビールを飲まないでひたすら集中。しかし、コンサートは7時からなのに5時を過ぎた頃から続々とお客が集まってくる。西本ファミリーは素敵な奥様と息子さん、それに息子さんの奥様、それにおじいちゃん、あばあちゃんもみな元気で明るい。素晴らしい家庭を作った西本氏に尊敬の念をいだきながらファミリーと名前をつけるのもだてじゃないと感心しきり。お客もみな西本氏をしたってくるようだ。

コンサートはまず千田さんに3曲やってもらい、私が登場。ボーカルシステムはスピーカーもアンプもマッキントッシュで、リハーサルの時に気付いていたが、あまりにも高級な音なので、我々のPVのアンプのようにローハイで音を遠くに飛ばすように設計されている音質とはうまく混ざっていない。終わった後にその話にり、研究課題が残ったが、1曲目から4曲目まで「みんな覚悟してねと」ロックを聞かせた!

さすがに4曲目の途中でおじいさんが少しうるさそうな様子が見えた。しかし予定通り。5曲目からはスローをやって無事終了。挨拶をすると、え?これが第一部だろうなどと言われる。確かに1時間ほどのステージだが、やりきった感がある。それでビールで一息ついてから2曲ほどやる。やはりビールが入るとミストーンが怖い。その後は西本ファミリーが作ってくれたホテルのバイキング形式の食事をたっぷりとった。

こういう小さい会場では、お客との直接の関係性は逃げ場がないので、歌い終わってもまだステージ上にいる感覚が続く。さすがに12時前にもう眠くなって来た。家へ帰っても満足感が残る。良いコンサートだった。面白いことに帰ってから反省を兼ねて練習すると上手くなっていた。やはりコンサートをすると、どこか研ぎ澄まされるところがあって、その日の内にそれを確認することが重要だ。昔は飲みつぶれるまではしゃいでいたが今から考えると実にもったいないことだ。
【2005/10/25 15:52】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
結ぶ線
日記が一日途切れてしまった。なんとなく惜しい気持ちだた、やはり続くことと続かないことがある。詩の朗読も10日ほどでで途切れてしまった。しかし、音楽だけは続いている。ギターを持って歌うという行為だけは続く。というか、もはや快楽に近い。

私には変な性癖がある。それは絶えず進化したいと思ってしまうことだ。体操競技のような演奏を聞いても何も感じない。自分の技術を磨きその技で相手をねじ伏せる世界。清水博さんの言うところの剛の剣、宮本武蔵の剣だ。柳生新陰流は違う。相手の出方次第で戦法を自在に変化させる技を磨く。まるでフリージャズでの世界だ。

フリージャズのライブには退屈なものが多いが、その精神は全面的に支持している。時々刻々と変化する世界に影響を受けながら演奏は進んでいくべきだし、良いライブではわくわくするようなエネルギーが継続していく。音楽的な好みというのはあっても、凄いな!と思えば好きになれる。自分にとっての異質を受け入れる拡張する瞬間だ。そのようなことが起こったかどうかが私の音楽の価値観だ。これが佐々木忠平と私とを結ぶ線だと思っている。
【2005/10/21 21:47】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
eAT金沢の話(4)
掛須秀一さんは映画をデジタル編集出来る日本で最初のスタジオ「ジェイ・フィルム」を立ち上げた人で、日本の映画界の今日の躍進を仕掛けた主要メンバーの一人だ。「萌えの朱雀」のような当時無名だった河瀬直美監督の作品を編集し、カンヌの新人賞を取ったり、「甲殻機動隊」に代表されるまさにブレイクしつつあった日本のデジタル・アニメーションを支えていた。彼は実に気さくに付き合ってくれる。私のスタジオにも気軽に遊びに来てくれたし、当時映画館内CMの仕事を始めた私の素人質問に何回も丁寧に答えてくれた。本当に感謝している。

第四回目eAT金沢の目玉はオープニング・フォ-ラムでのMACH 1.67の演奏だ。MACH 1.67とは地球の公転速度で、石井聰亙監督をVJとする大音量ノイズギターのバンドユニットで、今は休止しているがこれがデビュー・ステージだった。第六代目プロデューサとなる小野川浩幸氏が音楽監督、ボーカルが浅野忠信、永瀬正敏 とくれば、これでeAT金沢も一挙にブレイクかと思われる勢いだ。事前に行われたサイン会には1000人を越える女子中学生、高校生の列が片町の地下街を横断していた。

しかし、文化ホールでのパフォーマンスは通常のエンターテイメントとはかけ離れた硬質なもので、映像は「怒り」がテーマのようなシーンが多く、立ち上がった女の子達はあきらかに戸惑っていた。会場には地響きするような重低音が響き、ステージ中央の廃墟のようなオブジェを浅野忠信がマイクスタンドで何回も打ち降ろし破壊する。前回の森村泰昌氏の全裸シーンのあるオープニングに続き、これを許容する金沢市は凄い。その時である。舞台下手の方からするりと永瀬正敏が現われ、ステージの中央近くで止まった。私は感動を覚えた。まさにそこ、ステージの重力関係とでも言うのだろうか。そこでしかない場所に立ったのだ。世界的な俳優の力を見た。リハーサルではなかったことだ、彼の自己演出だった。

翌日はセミナーが開かれる芸術村だ。この頃はまだセミナーが同時刻に2つ開かれる形式をとっていた。観客はセミナーAへ行き、Bが気になるとBへ移動する。自治体にありがちな窮屈なセミナー感覚ではない。富士ロックのような同時にいくつものコンサートが行われるスタイルを先取りしていた。しかしこれは後にゆっくり見たいという要望もあり通常のスタイルに変更された。ついでに言えば会場ではネクタイ禁止とか、入場の印が首から下げたCD-ROMであるとか、遊び心が行き届いている。浜野さんは市長がネクタイをしてきたらはさみで切るパフォーマンスをやりたいと言っていたが、さすがにこれは行われなかった。


セミナーでもこの熱気は続いた。なにせテーマは「ムービーウォーズ……これが映画を変える」だ。圧巻だったのは押井守監督、塚本晋也監督、石井聰亙監督がずらり並んだセミナーAだ、進行は掛須さん。どんなシーンを撮りたいかという質問に対して石井聰亙監督は「スタッフの気が結晶した瞬間」「これだ!というような制作スタッフが全員感動するようなシーン」というような文脈で答え、押井守監督にもこの質問が向けられた。すると彼は石井監督の意見を真っ向から否定する。現場での偶然の出来事はいらない。私が思い描いた世界を忠実に再現したいのだという。会場はどよめいていた。確かにアニメーション映画はそうだ。このメンバーは予定調和的な発言をしない。
【2005/10/21 19:15】 | eAT金沢 | トラックバック(0) | コメント(0)
先生の日
今日は先生の日だった。朝は金沢市立工業高校。午後は学院大学、夜は町内のパソコン教室。少し疲れることがあったが、気を取り直し、練習してからeATのテキストを頑張る。
【2005/10/20 03:17】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
eAT金沢の話(3)
eAT金沢の話(3)

3代目のプロデューサーは山口裕美さん。テーマは現代アート。浜野さんが「面白い女性がいる」と彼女を実行委員会で紹介したことを覚えている。彼女の速射砲のような喋り方にも驚いたが、エレガントなたたづまいの中に何か過剰なものを抱えている人だと思った。

その夜私達は片町へ繰り出した。みんな高揚していた。美貌の元日航キャリアウーマンは「やはりカラオケは立ちでしょう!」と立ち上がり歌い始める。「う...うまい!」聞けば青山学院の軽音でボーカルだったそうな。日本にも美形で国際的な仕事ができる女性がいることを今回の衆議院選挙で知ったが、1998年頃、彼女はひときわ輝いて見えた。

森村泰昌(美術家)、樋口真嗣(映画監督)、岩井俊雄(メディアアーティスト)、村上 隆(アーティスト)、日比野克彦(アーティスト) 彼らはすべて出世した。この人たちは確かな審美眼を持っている。地元からも初めて大樋年雄(陶芸家)が参加、個人的にはノーベル章候補と言われる清水博さんの「生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理」(中公新書)にはまった。自分の知らない世界を体験したeATだった。

夜塾は江並氏が盛り上げた。この回あたりから私はCG界の巨星河口洋一郎氏に挑むが、スタッフの間からも「何を言っているのか良く解らない」という苦情が寄せられる。しかし、それが名物になっていく。焼酎を飲みながら聞こえて来るのは「芸術はサバイバルだ」という言葉だ。そして、「砂漠に実際行かないと、体でその色や感触を感じないと、砂漠の色は出せないんだよ」とか言い始める。高度なプログラミングCGを野人が操る桁はずれなスケールを感ずる。種子島出身。海の美しさを知っている人だと思った。

そして一番印象に残ったのは、プレゼント抽選会の時の浜野さんだ。彼に凄いプレゼントが当たり、「いやあ、強い星を持って生まれた人にはかなわねえな」と思った瞬間である。彼はそのプレゼントを大きな弧を描いて客の方へ投げつけた。そのあまりの勢いに、けが人がでるのではないかと心配したほどだった。私は浜野氏の目をみたが正気だった。そしてにっこり笑っていた。

この回あたりから露天風呂セッション(仮称)が行われるようになる。10人近くが円形に座れる露天風呂がK旅館にあり、そこに面白いメンバーが集まると、そこが夜塾の別会場になるのだ。2月と言えば外は雪である。体が冷たくなると湯につかる。自分の目線が丁度座っている人達の股間の高さになる。のぼせないうちに上がる。すると誰かがまた湯につかる。

それから数ヶ月後テレビを見て私は大笑いした。あるCMのせりふが、露天風呂での会話まんまだったからだ。みんな楽しんでいる。江並さんが山口さんに男風呂へ入って来いとからかったら、本当に入ってきたという噂もまことしやかに流れた。
【2005/10/20 02:11】 | eAT金沢 | トラックバック(0) | コメント(0)
今日はメディアアート
今日はメディアアートの講義日。VJソフトのモーション・ダイブを紹介するも、あまり反応がない。??しかしプレミアを真剣に勉強していることが伝わるのか、穏やかに講義は終わった。次回は2年前私とアズビーブラウンがNHK金沢で連載した3Dアニメーション、パフィー・スネイクを見せてやろう。

帰りに近江町に寄ってビーフシチューの材料を買った。今日は私が作る。角切り肉をニンニクとバターで炒める。これだけで食ってしまいたが我慢して水をたっぷりはった鍋に移す。フライパンを洗わないで今度は玉葱を炒める。カレーを作るときほどには時間はかけないが。色が変わるくらいで大鍋に移し、じゃがいも、人参、キャベツをいれルーを入れて煮込む。さあ、ビールでを飲みながら出来上がりを待つ。結果?最高ですよ。全員がお代わり。

【2005/10/19 01:09】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
eAT金沢の話(2)
eAT金沢の話(2)

何が面白いかと言って「遊ぼう」って本気に言われることだ。引く人は「ちよっと…」となるし、すぐに乗る奴は馬鹿だ。しかし参加することはできる。精神がダンスしている人達がいた。夜塾というプログラム。市議会でも「あれはなんだ?」という意見があったそうだ。しかしこのイベントの真髄は夜塾なのだ。運営委員、ゲスト講師、フリー客200人が湯湧温泉の大広間で朝まで語る。一夜限りのゴールデン街が出現する。次々と講師をはしごする人も多い。

運営委員や講師達が一夜の宴を自らが演出し、出演し、会場を盛り上げる立場にあると気付く。このあたりが実に洗練されている。さすがエンターテイメントを極めた人の演出だ。夜中の3時ごろ大騒ぎも少しは収まり私は休憩に風呂場へ行った。ここには素敵な露天風呂がある。しかし、風呂場へ入るとガラス越しに樋口監督が一人立ち月を眺めているではないか。このような場合邪魔はしない。そんな暗黙のルールが共有されている。

当初驚きの連続であった「eAT金沢」も参加してない人達から見ると、実に理解が出来ない。感性のない人達がいることは高校生の時に気付いた。「え?この良さが解らないの?」。解らないのだ。解る人からの苦言なら解る。eATの委員会でも問題が起こった。私は慣れない行政イベントのしがらみで、もう少しで自爆テロをやるところだった。でも、もう大丈夫。eAT金沢のためなら誰とでも上手くやって見せる。

初代プロデューサであった江並直美氏は関西出身の人で大阪万博で衝撃を受けた一人だと言う。いま検索するとhttp://www.japandesign.ne.jp/KUWASAWAJYUKU/KOUZA/98-1/GRA/ENAMI/
こんなサイトが残っていた。今は病気療養中というところだが、復帰は難しいようだ。

上記サイトのテキストを読んでいても私には全部彼の関西弁の語り口で聞こえてしまう。市役所からスタッフが東京の彼の事務所へお願いに行った時、彼は2時間語り続けたという。江並氏の一日も早い復活を願いながらも受けた影響の大きさに改めて気付かされる。eAT金沢立ち上げ時の最大のエンジンだった。

夜塾の目玉に講師が持ち寄るプレゼント抽選会がある。講師はプレゼント持参が義務付けられていて、これをなめた講師はその夜とても惨めに過ごさねばならない。みんな とんでもないものを持って来る。私がポケモンの金銀に様々なグッズ(テントまであった)をゲットした時は子供達から非常に尊敬されたものだ。夜塾に参加したほとんどの人が何かもらえるほどの量があり。デズニー・アニメの原画なんてものまであった。

そしてプレゼント抽選会の司会こそがeAT金沢の最高ポストであり、まさに江並さんの独壇場であった。彼が参加出来なくなり、この最高ポストを継いでくれたのが中島信也さんだ。中島さん以外にこの役は絶対に勤まらない。(中島さんについては別の号で特集します)

夜塾の朝は、バスの出発時間に間に合うよう、9時頃までに朝食を摂らなければならないのだが、この時にまだeATが終わっていないことに気付く。心地よい高揚感はまだ続いている。私達はバスに乗り金沢の市内で降り、別れを告げて初めて私の出番は終わったと思える。講師の人たちは羽田の飛行場で別れるまで「eAT金沢」は続くのだろう。私は家に帰り家内と子供達に話す。こんなことがあった。こんな話が面白かった。そんなことが毎年繰り返されている。
【2005/10/19 00:50】 | eAT金沢 | トラックバック(0) | コメント(0)
eAT金沢の話(1)
eAT金沢の話(1)

10年前と言うと1996年に世界のインターネットは終焉する。などいうタイトルのニューズ・ウイーク誌が発売された頃だ。ミックジャガーが激怒!ローリングストーンズが世界で初めてインターネット・ライブ中継、まったく繋がらず、繋がっても途切れ途切れの最悪の音質。

進歩的な地元誌の会長でさえもインターネットは廃れるものと認識していた頃だ。NTTのキャプテンシステムの失敗が響いていた。私はまだ泉野に会社があった頃で、自社サーバー一式を備えた石川県で5番目の会社だった。そこへNTTから出向で金沢市の企画調整課へきていたH氏と彼の部下のH氏が尋ねて来て委員への招請を受けた。彼らと外部のコーディネイターY氏が「eAT金沢」の創設メンバーだ。そして彼らの為した最大の功績は実行委員長に浜野保樹氏を選んだことだ。

浜野保樹氏と言われても正直私は何にも知らなかった。インターネットマガジンが創刊された頃で、慶応大学湘南キャンパスが紙面を飾っていた。私は柿木畠にある「うつのみや書店」で店の人に聞いた。「浜野保樹という著者名の本はありますか?」検索画面が切り替わり打ち出されてきた本の多さに驚いた。浜野氏の著作にはロックやパンクの激しさがある。ハーバードの客員研究員時代にパソコンで動画を見て次代を直感したという。

コンピューター画面を見て泣いたやつがいるか。そんなコンテンツが出来てはじめて本当のメディアになるんだ。デジタルの伝導師だ。彼は学生の頃、黒澤監督の映画チームで働いていた。とにかく豪快である。そして子供のように遊ぶ。これには私も巻き込まれた。彼は初対面の私に「めんたんぴんのくせに志が足りない」と言う。その言葉が今は少し解るようになった。

新鮮だったのは物事の決め方。ユーモアのセンスがないとついていけない。中身を伴った面白い話で全てが決まっていく。え?これ金沢市のイベントだよね。委員会に出るのが楽しくて仕方がない。出席する度に賢くなったような気がする。私はその頃専門学校で初めて教壇に立っていたが、話すことはeATのことばかりだった。それが日本の先端だった。

当時総務省の一研究員だった浜野氏や筑波大助教授だった河口洋一郎氏はともに東大大学院教授となった。関わったクリエイターがみんなブレイクしていく。しかし江並直美氏を半ば失った。戦死だ。eAT金沢初代プロデューサーである。彼の仕事や人生に対する気迫は凄まじかった。マックで日比野克彦氏達と徹夜でデジタル表現の可能性を実験していた頃があったという。

2代目の萩野氏も熱血漢だ。パイオニア・レーザーディスク部門の部長で、ハリウッドでの買い付けの最高責任者だった。ニューヨークを定点カメラで撮影したコヤニ・スカッティーやノイズバンド、ノイバウンテンのようなマニアックなレーザー・ディスクが国内版で買えたのは萩野氏のおかげである。売れなくて困ったよという話を聞いたことがある。

彼は独立しコンピューター出版会社を興す。ボイジャーだ。そしてコンピューターで本を読むためのユーザー・インターフェイス「エキスパンド・ブック」を自社開発し、青空文庫というネットの立ち読みサイトを一般に公開している。著作権の切れた名作をボランティアでデジタル化してくれる人たちで支えられているものだ。
http://www.aozora.gr.jp/

そんな熱い湯の中に私は一挙に首までつかり、すっかりのぼせてしまった。続く3代目は21世紀美術館の創設にも関わった現代アートのチアリーダー山口裕美さん、そしてCG界の世界的巨人河口洋一郎さん。とどめは中島伸也大先生。さらに綺羅星のような彼らの友人達が金沢へ飛来する。宮元茂、村上隆、樋口真嗣、ああ、HPを見てくれ。私はこの人達全員と話したことがある。

情報を受け取るだけで精一杯だった。どれだけ勉強したら彼らと普通に話せるようになるのか見当もつかなかった。 http://www.eat-kanazawa.jp/
【2005/10/18 01:17】 | eAT金沢 | トラックバック(0) | コメント(0)
ビッグニュース
今日はビッグニュースがあります。「eAT金沢」のオープニング・フォーラム(観光会館)でなんと「めんたんぴん」の出場が決定しました。完全復活メンバーになるかはまだ状況を見ないと解りませんが、私は完全復活を果たしたいです。皆様のご協力を!

さて、この際なので「eAT金沢」について少し説明したいと思います。何か長くなりそうだからカテゴリーを新しく作ろうと思います。
【2005/10/18 01:16】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
日本海倶楽部
今日のイベントはお気楽に考えていたのだが、2時間半かけて着いてみると、障害をもつ子供達を応援する福祉イベントで、国会議員まで出席する大きなものだった。私は事前情報無し、単にトラで入ったのだが、少し早めに着いたことで、そのあたりの状況を学習することができた。

演奏も、自分の世界に入りすぎることなく、かと言ってそんなにおとなしくしたわけではなく過不足のないまさにプロの演奏で(オホン)主催者からは別のイベントで冬また呼びたいと言っていただきました。地ビールの会社が会場だったので

http://www.nihonkai-club.com/

そこら中でビールの乾杯の声が聞こえたが、出番前も、演奏後2時間半のドライブを考えると飲めなかった。帰ってから飲んだビールの美味しかったこと。その後3時間爆睡。今起きたところです。これから大学の講義の準備だ。

帰りに写真をたくさん撮ったので、アップしときます。海の見えるステージ

【2005/10/16 23:13】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
メトロノーム裏打ちで
今日は深夜突然tkさんがライブの写真を届けに来てくれた。前から一度セッションしようと言っていた人だ。カントリー・ミュージックというニッチなジャンルの人で、腕前は私なんぞより全然上手だが、やはりリズムの裏打ち感がない。最近自分の周りにいる人でそのことを言っている人がいない。

メトロノーム裏打ちで合わせられる能力がないと一流の人とはセッションできないです。もし出来ていればそれは向こうがあなたのレベルに下げて合わせてくれているからで、彼はリズム的にはスリルを楽しんでませんよ。

フォークの人もそうだ。リズムを表でしか練習していない人には気の毒だが裏があってこそ立体的な空間が生まれる。現実の社会と係わり合いを持てるのですよ。
【2005/10/15 02:09】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
中学3年の夏
中学3年の夏は書いておかねばならないだろう。

私は相変わらず学校では野球部に属し、厳しい練習をこなしながら、家へ帰ってビートルズのレコードを聞き,ギターを弾いて生き返っていた。

野球部には私達の学年に「こいつ!」というスラッガーがいなくて、本来は5番バッタータイプの私が4番バッターだった。試合の前くらいは素振りもした。こんな思い出がある。野球部専用のグラウンドのレフト線にはポプラ並木があり、観客席にあたるところは田んぼだった。真夏の練習、特に一年生の時は田んぼに落ちたファールボールを探す振りをして田んぼに入り、冷たい泥に足を突っ込んだ時の気持ち良さ、蝉の声を聴きながらのしばしの安らぎを覚えている。

昔は「練習中に水を飲むとバテル」という迷信があり、練習中は一滴も水を飲むことが許されなかった。それを誇りにしているようなところもあった。我慢大会である。まさに乾ききった情景だ。

話がそれてしまったが、私の通っていたR中野球部は、私が1年生のときは県大会で優勝。そして2年の時は市大会では優勝、県大会でも、そこそこいいところまで行った強豪校だ。学校の期待も高い。大会では必ず全校応援が付く。1000人もの学生、OB、父兄、球場は凄い熱気となる。なにせ長島茂男が現役の頃だ。

しかし、市大会当日、私はなんとなく落ち着かなかった。丁度試合時間にビートルズの初の日本公演のテレビ放映があったからだ。初めてのビートルズを見たかった。しかし新聞のテレビ欄を見ていると、隣の県である富山の北日本放送が当日深夜にその番組を放映することが解り、小躍りした。隣の県からの電波だから映りは最悪、砂嵐の中に映像が見え隠れする程度だがなんとか見れる。雑音混じりのラジオ並の音だだが何とか聴ける。私は安心して球場へ向かった。。

さあ、試合が始まった。市大会一回戦である。キャプテンの3番バッターがフォアボールで出塁。私の最初の打席だ。私は初球の甘い玉を積極的に打ちにいった。会心のミートだったが、真正面のレフとライナーだった。惜しい!しかし、このピッチャーだったら行ける!しかし、2回目の打席はちょっとなめてしまったのか逃げるカーブであえなく三振。

これが監督は非常に気にいらなかったようだ。試合は膠着状態で進み、相手チームが1点先取の最終回、なんとノーアウト満塁で私に打順が廻ってきたのだ。応援団は総立ちだ。私も気合が入った。秋の新人戦では同じような場面でタイムリーを放ちチームを勝利に導いた記憶が蘇る。しかしその時だ、監督は私に代打を告げた。M君と言う補欠選手で練習試合で一回だけヒットを打った男だ。その時の私の心境は複雑だった。まず私は一年生の時の「鳩泥棒」のせいだと思った。(昔話(3)参照)そして、これは俺に下された罰であって、私は甘んじてこれを受けることで罪を償ったことになるのだろう。そんなことを考えていた。

代打は無残にも三振、そして何と3者連続三振でゲームセットとなってしまった。応援の女子生徒たちは全員泣いていた。このR中が市大会で一回戦で敗退したことはおそらくなかったと思う。しかし、私はみんなが思うほど辛くはなかった。大事な人の葬式で悲しくない後ろめたさのような気持ちだった。

家に帰っても、動くビートルズを見れる!放映の時間が待ち遠惜しい気持ちで一杯だった。食事を終え、ビールズのレコードを聞いて時間をつぶし、いよいよ番組が始まろうとする頃、親父が帰ってきた。最近は会社が金沢へ移り業績も拡大し、親父の油も乗ってきたころだった。

しかし、自体は想像もつかいない展開となる。親父はとても不機嫌だった。そして、俺に早く寝ろという。私は今晩はビートルズがあるので、テレビを見ると言って、譲らない。私のきっぱりとした態度に余計腹がたったのか、こんな映りの悪い画面を見るべきではないとか、近眼が進むとか、口論状態になり、頑として主張を繰り返す私に親父は平手打ちを繰り出してきた。

私は泣きじゃくりながら部屋へもどった。なんとも言えない感情がこみ上げてきた。今だったら「なんて酷い一日だ。きっと親父もむしゃくしゃしていて母ちゃんと一発やりたかったに違いない」等と客観的にもなれようが、私は父を許すことが出来なかった。
【2005/10/14 00:43】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
捨てる神あれば拾う神あり
今日スティールギターの千田さんが楽器を持って現われた。そして、とても丁寧な練習ができた。千田さんは彼自身の本能的なアンテナを持っていて、抜群のインターバルで尋ねて来てくれる。

前前日の酷いライブの余韻がこれで中和されたような気分だ。失敗の原因は解っているのだから次に繋げればよいのだが、現実に次のステージが良いステージになるためには何か進歩や進化がなければならない。それが今日のセッションで見つけることが出来た。

そんな時、輪島のNさんから「ドタキャンがあって16日(日)に珠洲市でライブをやれないか?」という電話が入る。音楽の神様が仕事を用意してくれたようだ。

仕事と言えば、富山の商工会議所から30日(日)のお昼のイベントで演奏する仕事が入ったのだが、さすがに「もっきりや」でのソロは慎重にやりたい。前前日の酷いライブも頭にあって、丁重にお断りさせてもらった。惜しい気もするが体力的に自信を持てない。やはり最後は体力だ(笑)
【2005/10/14 00:11】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
酷いライブをやってしまった
昨日は実に酷いライブをやってしまった。演奏時にスリリング感、躍動感を途切れなく持続するには、ある種の感情の高ぶりが必要だが、それが途切れてしまった。自分で原因はあれだと解っていることがいくつかある。ライブをなめたらあかんのです。自分もそうだが、観客は超人を求めている。昨日はステージに立っていることが恥ずかしかった。久しぶりの完敗です。次に活かしたいと思います。お客さんごめんなさい。

私はひら場の音楽(普通の音楽好きを対象にした音楽)がやりたいのですが、音楽の深みを実際に表現できないと、それを形にすることが難しいと考えています。その上で観客を巻き込める(楽しんでもらえる)音楽を作りたい、演奏したいと思っています。

【2005/10/13 02:59】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
最後は体力
今日はThe 「めんたんぴん」の佐々木忠平との久しぶりのライブだった。コンサート会場はストリート。小松市の商店街全域が会場となった大がかりなお祭りだ。晴天にも恵まれ、小松市にはこんなに若者がいたのかと地元の人が驚くほどの賑わいだった。

さあ、スタートだ「今日も小松の町は」のボーディドリー・リズムのイントロを弾き始めると観客が喜んでくれているのが解る。これはミュージシャン冥利に尽きることだ。そのための練習だった。観客と演奏側との一体感を持つための私はメディアになれたと思えた。

バンドは昨日だけのリハでよくこんなに出来るものだ、というくらい達者なリズムセクションで、思う存分リアルタイムな演奏の高揚感を楽しむ。ええい、行くところまで行ってしまえ。大受けで終わる。

しかし、今回は12時と3時からの2ステージである。一回目に行くところまで行ってしまったので、2回目の演奏に入るモチベーションのキープが難しい。観客は入れ替わっているのだから、まっさらな気持ちで臨まなくてはいけないのだが、1回目で大受けしたものだから、どうしても自信と邪念がないまぜとなった傲慢な気持ちが出てくる。

前回学んだ演奏前の「ため」にも注意しながら、アイポッドで周りを遮断しつつ2回目に集中力を持って行こうとした。結果は概ね良かったのだが、やはりミスは一回目と比べて多く、終わった後で握力的にもかなりやばかったことに気付く。緊張感はキープ出来ていたと思うので、やはり最後は体力である。

しかし、同級生や、78歳だと言うおじいさんから「あんた達の音楽はいいわ!」なんて言われると嬉しいものだ。しかし、金沢への帰路、8号線で思いっきり眠くなった。時間は短かったがやはりライブは違うなあ。こんな場合に頼るよすがは普段のトレーニングしかない。
【2005/10/09 23:39】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
音響エンジニアの須藤さん
今日はコクシネルのライブ盤を録音。ミックスしていただいた音響エンジニアの須藤さんから金沢21世紀美術館の珪藻土のイベントで藤枝守さんのインスタレーションの音響の仕事で金沢へ来ていると連絡があった。藤枝守さんは音律の大家で私も3冊ほど本を持っている。ぜひお会いしたいと思ったが今日は午後は大学、夜はPC教室と忙しい。明日に延期してもらった。とても楽しみだ。

9日の「めんたんぴん」のライブ(小松市)も楽しみだ、前日に「山屋楽器」(小松市)でリハーサル。高校生の頃から使っていたところだ。ここも懐かしいなあ。どんなライブになるのかいろいろと想像してみるのも楽し。いよいよ復活の狼煙(笑)
【2005/10/07 10:34】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
ブログを6箇所持ったことになる
私は自分のブログを6箇所持ったことになる。どれがいいのか試していたらこんなことになったのだが、fc2.comが一番木気にいった。デザインのテンプレートもいいし、何より1Gですよ1G!個人のブログにこれだけの贅沢させていいの?それに広告(アフィリエイト)もOKですから。

今は例の撮影した素材を学生が使いやすいように編集しているところ。本当はこの過程が重要なのだが、まあ最初に「面白い!」と思わせた方がやりやすいので、ご用意いたしましょう。そうでないと、ここで挫折する人が出そう。先生も客商売、受けて何ぼでんがな。(大阪のバンドの影響か)

しかし、何ですね、アコースティック楽器と言うのは本当に奥が深い。二度と同じ演奏ができない。真中あたりをいつでもプレイ出来るように体に覚えこませるしかないですね。後はその場といかにコッミュニケートするかというノウハウ、リアルタイムな現場の判断。少しは芸も欲しい。芸は身を助けるというじゃありませんか。

あ、そうだ。本日は私が料理しました。にんにくをゴマ油でいためてその中にしいたけと長ネギ、カニ足、ひき肉を入れた麻婆豆腐を作り、その中にとんかつとチキンカツを一口サイズに切って煮込んだもの。肉が柔らかくて好評でした。芸と言えば料理はかなりのものかもね。それでは!

【2005/10/06 03:28】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
ビートルズ恐るべし!
さあ、今日は早くから起きて、メディアアートの講義の構想を練っていたら、思いつきましたよ!用意したのはビデオカメラ5台と三脚五台、それに詩集ですよ詩集(笑)最近詩集づいているが、今日は若い子ばかりなのでランボー!シルベスタスターローンの映画しか知らないだろうと高をくくっていたが、デカプリオがランボー役の映画があったそうだ(知らなかった)。なんだかんだと勉強になるのはこちらの方です。

そして私好みの可愛い女の子と男の子を指名して(先生の特権)朗読させる。カメラは高さを揃え、背景や他のカメラが移らないように朗読者を中心に大体五角形の頂点の位置にセットし、頭の部分、顔の部分を画面一杯にズームして撮影。さあ、どんなものが出来るでしょうか。まだまだ試行錯誤が続きます。面白いアイデアがあれば教えてください。

さて、講義は好評のうちに終了。それから「もっきりや」へ。昨日作ったフライヤーを持って打ち合わせ。不気味な透かしにも平賀さん動じず。10日のライブ、友人の「いとうたかお」のチケットを買って帰宅。

そして夜は友人が招聘した「BLACK BOTTOM BRASS BAND」のライブへ出撃!知らないバンドだったが大阪の人はどうしてこう芸人が多いの?ニューオリンズスタイルで観客は大満足。私もライブのアイデアをいくつかゲット。外へ出ると何か手に入るものだ。書を捨て街に出ようですね。客席は1/3くらいが知り合いだった。金沢は狭い。

再び帰宅すると珍しく音素材の注文がメールに入っている。「今日は充実していたな」と満足げにミックスダウンしながら書き込み。明日も講義があるのでもう寝たいが、これから練習!

実はビートルズのBaby your Rich Manをシークェンスを使ってサイケにやろうと思っていたのだが、やってみたらやたらとキーが高い!下げてやってみたがビートルズの曲はこのキーでなければと言う曲が多い。ジョンなんか声がでないのでファルセットで歌っているのは楽曲的にこのキー以外には考えられないからだろう。ビートルズ恐るべし!
【2005/10/05 15:15】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
紫の煙
中学の頃から感じ初めていたことの一つに音楽に対するセンスというか感受性に大きな個人差があるということがある。ビートルズ派とストーンズ派に分かれて論争するというような違いではなく、例えばビートルズのFrom Me To Youをかけた時、曲中のシャララララララ~ラというコーラスになると、いきなり大笑いしだした女がいた。(彼女はなんと京都大学に進学した)理屈ではない。どこかが全く違っているのだ。

高校の時も音楽の授業のレコード鑑賞の時間に私は出たばかりのジミヘンドリックスの紫の煙(パープルヘイズ)を、それこそ私の受けた衝撃を聞いてくれと重大事件のような緊張感で持っていったのだ。しかし曲が始まると、音楽室が紫色に凍るのを感じた。そして音楽の先生がレコードの針を上げ、「池田君」と優しく語りかけてきた。「これは音楽ではないと思うなあ」。

私は自分の感性と全く違った人がが多くいるんだということを確信したものだ。しかし、最近パープル・ヘイズを聞いて思った。あの先生の言うことは正しかったのかもしれない。ジミーの音楽には過剰がぶち込まれているのだ。

ビートルズを笑った女の子も何か過剰なものを感じただけかもしれない。フロイトの本だったか、父親が死んで笑い出した女のことが書いてあったが、人間はあるレベル以上の情報がインプットされると一般的はおかしな反応が現れ、分裂病発生の引鉄になることもあるという。神様はどうしてこのような多様な個人を作ったのだろうか。

ある時読んだ本には「種の保存」のためには多様性が必要だとか。そのおかげで私はいろんな出来事を体験出来ている。
【2005/10/05 06:19】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(1)
秋の文化祭
さあ、演奏するのが楽しくてしようがない。遊びに来る友人達も絶賛である。私は演奏の場を求めて行動を開始する。まずは直前に迫った学校の創立記念だ。担任を通じて申し込むが、にべもない。当時はエレキギターは不良のシンボル。受験勉強に集中させるのが教師の仕事である。今から考えても無理な提案だ。ところが、こちらは熱病にかかっているのだからどうしようもない。何でだめなんだと「ケンタ」と呼ばれていた強面の学生課の先生に直接談判に行く。職員室に彼の怒声が響く。私は全くひるむことなく何回も尋ねていった。

結局、創立記念日に演奏することはかなわなかったが、何回も粘り強く学校側とかけあったことは学校の間に広まっていたようで、その話を聞いた一年先輩のKさんが尋ねてきたのだ。(彼の父はその地方の名士でPTAの会長だった。)一度彼のグループの練習を見に行くと、彼のギターワークのレベルは高く、Fを押さえる程度ではなくてシックスやディミニッシュといったテンションコードまで使っているではないか。Kさんは学校側とかけあっても無駄だから、秋の文化祭でゲリラ的にやっちまおうというのだ。

私達の高校は加賀藩の三代目当主であった前田利常が隠居城として使っていた跡地にあり、城跡の石垣が今でも残っている。そしてそんなに大きなものではないが天守閣跡まであり、春には桜並木が花びらを散らせているような環境にあった。そしてその天主台跡でフォークダンスを踊るのが学生達の楽しみの一つだった。良い時代である。ランダムにならんだ男女がそれぞれ意中の人がいて、その人と手をつなぐ順番をどきどきしながら待つ。もうすぐ彼女だ!そして直前になって音楽がストップしたりするのだ。学生達のため息と歓声、しかし私達はその日だけはそんな甘い感傷にひたってはいなかった。

フォークダンスが始まると天主台の裏側からあらかじめ運び込んであったドラムやアンプをセットし、フォークダンスの演奏が中断した間隙をついてビートルズのロックンロール・ミュージックの演奏を始めた。チャチャチャチャ!1曲が終わっても何もおこらない。先生達も学生も皆ぽかんとして見ている。優等生の多いこの学校では想定外のことが起こっていたのだ。3曲ほど演奏が終わって、やっと学生課の先生がやってきて中止しなさいという。

しかし、今度はKさんのバンドの演奏だ。どんないきさつになったのか良く覚えていないが、Kさんは彼のバンドの演奏をやりきることが出来た。PTA会長の息子とはいえ、あの交渉術は見事なものだった。

私達はその日以来学校のヒーローになっただろうか?数人の友人からは良くやったと激賞されたが、一般の学生達の評価は低いというよりはほとんど反応がなかったと記憶している。楽しみにしていたフォークダンスの時間をジャックされて恨んでいた人もいたのかもしれない。
【2005/10/05 06:09】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
佐々木忠平との出会い
ドラムセットが中学生の部屋にあるなんて、今の時代でも夢のような話だ。ステレオもある、そしてとどめは祖母が高校入学のお祝いに2chのオープンリール・テープレコーダーを買ってくれた。LR別々に録音できることから多重録音や逆回転再生を発見し、ますますのめりこんでいった。これでミュージシャンにならない方がおかしい。なんとも恵まれた出発だった。しかし中学時代のあの大きなストレスがなかったらここまで音楽にのめりこんだろうか。ストレスは反面バネになるものなのだ。

同級生バンドでの私の担当は最初はドラムだったが、演奏が全然物足りない。ええい、俺がギターを弾くといって、いつのまにか私がギターになった。Fのコードを押さえられるようになってからは面白くてしようがない。しかし我流ゆえ、5弦は薬指、4弦は小指で押さえるところを逆に覚えてしまったので、今でも苦労している。やはり基本は正確に身につけた方が良い。奏法の基本は400年以上の楽器のノウハウの蓄積の上にある。それを学ばない方がおかしい。例外はジャンゴ・ラインハルトとブルースだろう。ジャンゴの左手3本指奏法は一度だけフィルムを見たが、本当に奇跡だ。一方ブルースは滅茶苦茶な弾き方でも、いいものはいいと教えてくれた。クラシックなどではありえない世界だろう。

中学の卒業式で私のバンドのリードギターを弾いていたミッコと呼ばれていた男の子はかっこ良かった。彼は小柄だが、ケンカが強く、中学を卒業してまっすぐ組員になった男だ。学校をサボってはヤクザ映画にはまっていた。ある日、大好きだった同級生の女の子が彼とデートしていたという話を聞いてショックを受けたが、あいつならしょうがないなと思ったほどだ。私はコードを弾ける人がいなかったのでリズムギターを担当していたが、彼の演奏には魅力があった。少し天狗になっていた私の音楽生活は、高校へ入った初日でぶっとんでしまう。佐々木忠平との出会いだ。

高校は地元の進学校で、親はとても喜んでくれた。そして新入生は皆そんな雰囲気で入学してきたメンバーだった。私が驚いたのはクラスメイトの大半が授業と授業との間の休憩時間も机に向かっていることだった。私はあの暗い中学校生活とおさらば出来て天にも上る心地だった。そして運命の自己紹介の時間が来た。私はバンドをやっていることを話したが、そんなに反応はなかったと思う。とにかく、こんな場合は池田というと、決まって順番の頭に来る。あまり考えをまとめる時間もなく、とにかく話さなければならない。逆に中川とか和田とかは全員が終わる頃に話すわけだから、全体のまとめというか、流れを汲んでの発言になるので、苗字のあいうえお順や母音がその人の性格に対する影響というものがあるのではないかと密かに思っている。

その時間が終わると佐々木が私のところにやって来て、自分もバンドでボーカルをやっていたというではないか。私は自分の家にドラムセットがあるから放課後遊びに来ないかと誘った。そしてセッションが始まった。私は彼の歌に驚いてしまった。安物のマイクをギターアンプにギターといっしょに突っ込んでいた時代だが、彼の英語の発音が正確にはっきりと聞こえるではないか。そしてビートルズのロックンロール・ミュージックやストーンズのサティスファクションはオリジナルそっくりで、その声の大きさ、スケールのでかさに感動してしまった。

この時以来私は他のどんなボーカリストよりも彼は凄いと思っている。後年、趣味の違いや思想的な感性がまるで違っていることに気が付くのだが、当時はそんなことはどうでも良かった。とにかく彼といっしょに演奏するのが楽しくてしようがなかった。
【2005/10/05 06:06】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
流行の音楽配信はココで
【clubDAM】流行の音楽配信はココで
【2005/10/04 20:34】 | 音楽とコンピューター
メディアアート
大学ではデジタルサウンドに加えて今年から新しく「メディアアート」という講座を持った。私には多少門外漢のところがあるのだが、なぜ私に廻って来たのかというと、eAT金沢という、
http://www.eat-kanazawa.jp/
来年で10年目に入るデジタルコンテンツのイベントに最初から委員として参加、6回目には石井相互監督の映画音楽を手がけていた小野川浩幸氏とともにプロデューサーもつとめて来たからだろう。

同様なイベントは国内には無く(21世紀美術館といい、ここが金沢市の凄いところだ)、海外でもアルス・エレクトロニカ(オーストリアのリッツで行われてきてもう25年続いている)や、CGの祭典シーグラフくらいしかない貴重なイベントだ。しかも海外のそれを真似ているわけではなく、オリジナルなイベントとして誇れるものだ。東大大学院教授浜野保樹氏の貢献は大きい。ほとんど彼のディレクションでここまでやって来ることができた。

メディアアートというと岩井俊雄氏が有名だ。(eAT金沢にも来ていただいた。そのセミナーの司会は私だった!非常に細かいところまで丹念に詰めていくタイプの方で、天才というのはこんな人かと思わされた。尊敬してます。)アルス・エレクトロニカでは坂本竜一氏とのコラボレーションでグランプリを取っている。

この分野でも日本人は多く活躍しているのだが一般的にはまだ知られていない。社会の一歩先を行くアートで(ロックも最初はそうだった)、プログラミングやセンサー技術を巧みに使っているので難しい分野だと思われているからだろう。彼らは良く体を使う。最初は空想するところから始まると言う。原始的なパラパラ漫画のようなことから、鋸や金槌を使って自分で作っていくタイプの人が多いのが良い。そして体を動かしたり触ったりすることによって映像や音が発声するような新しい仕組みを創っていく。身体性、体感性が重要なポイントとしてあるのも好きだ。

しかし、これをどうやって講義をしていくかは非常に難しいところだ。音声の編集や映像の編集くらいは出来るが、センサーやプログラミングとなると他の先生に協力してもらわなければならないだろう。本来は事例を紹介して学生の発想をサポートするのが良いのだが、今日の感じではまだまだ時間がかかりそうだ。自分にとっての勉強だと思って学生といっしょにやっていこうと思っている。

【2005/10/04 17:24】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
精通体験
中学1年の時の精通体験も私の人格形成に大きな影響をもたらした。実は私はそんなことは全く知らない小学生がそのまま中学生になっていたのだが、同級生から男と女は実はこんなことをするのだと聞かされ、そんなことはありえないと笑っていたものだ。それならと、その友人は今でも覚えている温泉街で売られていた一枚の白黒写真を学校へ持ってきてみんなに見せたのだ。その時の衝撃といったら何か人生に暗い霧がかかってきたように感じたものだ。

クラスでその話題がしばらく沸騰していた時、別のクラスメートが今度はいわゆる裏本をクラスに持ち込んできて、私達はまた大きな衝撃を受けた。そして自慰という言葉を発見した。そのうちに別のクラスメイトが尿道に針をいれるとたまらないらしいなどというデマを流すものだから、私はある夜、針を用意し机に向かって座り、静かにズボンを下ろした。断っておくが、まだ精通未経験のときだ。私のものはすでに固くなっていた。私は針をそっと持って尿道の方へ近づけていった。シーンとした空気の中、ペニスの先端に針の感触が伝わってくる。尿道の中へいれるのはさすがにためらわれた。どちらの方からいれるのかを聞いていなかったからだ。その時だった、まるで自分の遺伝子レベルの想念が一挙に脳の中に充満して、そして恐ろしいような感覚の中で私の初めての精通が起こった。

男として、この体験を超えるものは生涯いくつあるだろうか?初めて女性とことをなしたときでも、この怖れを伴うような感覚には達していない。以来、一日中このことが頭から離れない。すぐに手が伸びて、自然に触り始め、瞬く間に絶頂に達するのだ。女性と暮らすようになって自慰をセーブできるようになるまではほとんど毎日繰り返された。自慰と音楽の日々、学校へ行くと構内暴力と屈折した女性への憧れ。私の中学時代は精神と肉体のバランスがぐちゃぐちゃになっていった。

【2005/10/04 17:21】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
小学校時代
私は小学校へ上がる前は人見知りのせいか、あまり男の友達は出来なかったが、女の子とは良く遊んだ。祖母の薬局の前にあった電気屋さんに同級の女の子がいたのだが、そこには年長の兄弟がいたせいで漫画本がたくさんあった。遊びに行くのは口実で、その家の縁側で何時間も読みふけっていたことを覚えている。しかし、どんな漫画だったかは覚えていない。冒険王とかそんな名前を覚えている。

小学生時代に印象に残っていることを書く。なんでもないことだが強く印象に残っていることは小学校のグラウンドで一人で逆上がりを繰り返していたら、いつの間にかグラウンドに誰もいなくなっていた時の印象だ。本当に不思議な気持ちになった。私のテーマの核になっているものでもあるが、この不思議大好きな性格は子供の頃からだ。

実は父方の実家も薬局で、距離も200メートルくらいしか離れていない。父方には父の上の兄弟が2人いて、それぞれに子供がいて同居していたからとても賑やかだった。従兄弟はみんな年上だったので、夏は蝉取り、魚釣りを教えてくれた。彼らは天才的に上手かった。近くの小さな小川には「蛭」という子供心にも卑劣な奴だと思う生き物がいて、川から上がるたびに足に吸い付いた奴らをマッチの火であぶって落としていたことを覚えている。しかし、トンボや蝶やバッタのなんと多くいたことか。虫かごに入りきれないほどの蝉が捕れた。

そして、そこから1キロほど歩いたところには今江潟という汽水湖があって、ここまで遠征すると、本格的な釣りが楽しめた。キス、ボラ、フナ、サヨリ何でもいた。父に連れられて自転車で通った夏の早朝の風景を覚えている。父の背中とはこのことか。考えてみれば仕事の前に子供を連れて釣りに行くなど、なんと悠長な時代だったことか。祖父などは近くの片山津温泉へ、この汽水胡から船で一杯やりながら乗り込んだというから、まさに良き時代だったのだ。

こんなこともあった。ある夏の朝5時くらいに父は私を起すと駅まで行き、入場券を買い、隣の駅まで行って次の列車で戻ってきた。列車の中でも会話をした覚えはあまりなく、ただただ窓の外の風景を眺めていた。父の内面に何かあったのかもしれない。戻ると駅前で桃を買ってくれた。その美味かったこと!不思議な旅の経験だった。

一度運動会で父が徒競走に出場して、私の目の前のコーナーで転んだことがあった。父も悔しそうだったが、私は酷くがっかりしたことを覚えている。高校に入ったころからは父の勤め先が金沢になり、景気も良かったらしく、毎晩の接待で帰りも遅くなってほとんど話さなくなっていった。しかし、この頃父は仕事では絶頂期だったようだ。急にもらい物が多くなった。
【2005/10/04 17:21】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
ドラムセット
当時はレコード屋さん、パーマ屋さん、喫茶店は文化の先端だった。近所のパーマ屋さんがいち早くテレビを設置したので、相撲中継が始まると、夕方は必ずそのパーマ屋さんで、今から思えば妙齢のお嬢さん達といっしょに相撲を取りながら!見ていたのだ。私にとっては二重の意味で喜びだった。あの若い美容師さん達のたまらなくいい香りをまだ覚えている。なんといっても店の名前が「みゆき」だもんな。

野球部でバットを振る時間よりもレコードを聞いている時間が圧倒的に多くなってきた。我が家には当時まだ珍しかったステレオ(プレイヤー一体型)が小学5年の頃に来て以来(それまでは蓄音機+SP盤)、母の好きなタンゴやステレオのおまけについていたヨハン・シュトラウスやスーザのマーチなど何でも聞いていた。そしてエレキブームが到来する。

当時小遣いが月2000円だった。しかし、LP盤が1枚2000円である。少しは賢い子供ならともかく、私は小遣いをもらうなりレコード屋へ走った。そして、そんなLPがたまってくる頃に、私は棒で机やそのあたりをしきりにドラムスの真似をして叩くようになっていた。それを見た父親が、ねだったわけでもないのにドラムセットを(当時で3万円以上)を買ってくれた。これには廻りも驚いた。多分、個人でドラムセットを持っていた子供など、あの時代にいるわけがない。もっとも親はこのことを生涯悔やむことになる。

私の父は、大正14年の牛年生まれで、その地方では「牛年生まれの子供は家に居座る」という迷信があり、牛年生まれにはやたら「外」という文字を付けた。外喜男とか、外代子という叔父、叔母がいるくらいだ。父は三男ということで外三(そとぞう)という、なんともなげやりな名前が付けられたように、苦労の多い子供時代を送ったようだ。なにせ教科書から服装まで、全て上の兄弟からのお古、しかも商業高校を卒業するとすぐに満州鉄道ヘ就職と追いやられ、その反動もあったのだろう、私にはとことん甘かった。

こうやって書いて見ると、当時の記憶はまだ私に強い影響を持っていることに気がつく。小学校の入学式で、母親のそばから子供達だけの中に入っていく時の心細さを今も覚えている。一度だけ振り返って母親を探した。

こんなこともあった。本家がしっかりしていたこともあって、毎年夏休みになると東京から従兄弟が3人長期滞在していった。私は彼らに会うことが本当に楽しみだった。彼らの使う言葉のかっこ良さ、服装のセンスなど地方都市の少年には眩しかった。兄弟で早慶に入るくらいだから知的レベルも高かった。その弟の方が私を自転車の荷台に乗せサイクリングに出かけたことがある。夕焼けで空が赤くなってきた頃、私達は田んぼ道を走っていた。そのとき、ふといつも私が遊んでいる地域を越えて走り出していることに気づき、急に不安になってきた。空はますます赤く染まり、家に帰ろうと言うことも出来ずに、私はとうとう泣き出してしまった。従兄弟が不思議そうに「どうして泣き出した?」と聞くが私には説明できなかった。
【2005/10/04 17:20】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
鳩泥棒
そんな屈折した日々、野球部を退部した友達から鳩を飼っているから遊びに来ないかという誘いがあり、私は出かけて行った。生き物はそれだけで魅力的なものだ。漫画を読む、レコードを聞くといったこととはまるで違うリアルな世界だ。私は母に許しを得て早速鳩を飼った。番(つがい)の二羽がやってきた。しかし、このことが自分の性格に深いバイアスをかけてしまう大きな事件に発展するとは思ってもいなかった。

その日、その友達が「鳩ショップ」へ行こうと誘いに来た。店の中にはいろんな鳩がいたが、店の人はいなかった。その時友達は鳩を持って逃げようと言った。何かとってもスリリングなことだと思い、すぐに行動に移ったが、運悪く店のおばさんが奥から出てきて「泥棒!」と叫び始めた。俺達は大慌てで鳩をセーターの中に突っ込んで逃げ出した。普段から走りは鍛えてあるので、おばさんに追いつかれるわけは無い。まんまと逃げて友達の家の鳩舎に入れて帰宅した。

階下で母親が呼ぶので、私が下りてくると担任の先生がいた。担任の先生は理由は言わずにちょっと話を聞きたいので学校へ行こうという。その時は鳩のことだと思ってもみなかったのだが、学校へ着くとその友達が青ざめて座っていた。何でも私達が逃げたときに私達を知っている近所の人が見ていたらしいのだ。まず友達が御用となり、私の名前が出たのだ。

盗んではいない!私は否定した。それは嘘だったが、事が大事になっていることに怯え、また、友達の誘いに軽く乗っただけだで、実際鳩は彼の家にある。追求は厳しかった。とうとう観念した頃、窓の外に真っ赤な夕日が見えていたことをはっきり覚えている。私は泣いた。本当に軽い気持ち、スリルを楽しんだだけのことが、こんな悲惨なことになるとは。それでなくても野球部で暗くなっていたところに、もっと酷い中学生活が始まってしまった。取り調べ専門の先生は卒業するまで私を暴力でいじめた。負い目のある私はそれを耐えるしかなかった。そんな生活を救ってくれたのが音楽だった。

音楽の不思議な力は、音楽が流れることによって、現実の空間が別の空間と感じられることだ。もっと大げさに言えば状況を変容させる力だ。私は状況を正面から受け止めることができず、ただただ音楽を聴き、ギターを弾いて、歌っていた。今となれば若い頃にはそんな経験くらいあるさ、と笑えるが、小学校を通じて優等生だった私には「泥棒」のレッテルは耐えがたかった。1日にして自分のアイデンティティーが崩壊する体験をしたのだった。ジュネの言う「手袋をひっくり返した」というやつだ。今でも鳩を見ると苦い気持ちになる。私は数日後、親に黙って飼っていた鳩を逃がしてやった。親は何も言わなかった。
【2005/10/04 11:52】 | 音楽とコンピューター | トラックバック(0) | コメント(0)
創造研究家


社会との関係性をアートしています。自分の脳を創造し、その脳が何を作り出すのかが見たいという間接的な創造を考えています。

プロフィール

池田洋一郎

Author:池田洋一郎
アート系で社会との関係性を創造しています。ミュージシャンでありますが自分のイメージは少しずれています。自分の脳を創造し、その脳が何を作り出すのかが見たいという間接的な創造を考えています。

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